ご飯粒まで綺麗に食べた尽くした皿を、尊はひょいっと空の皿の上に重ねた。
尊のお願いを快く引き受けたライに促され、四人と一体と一匹は、近くの食堂へと移動した。
尊の膝の上には未だ気絶したままのディア・ガディアスがいて、隣にはテオドシウス。向かいの席には、マーチでその隣にはライが座っている。足元では、きゅーちゃんが平皿に入れてもらったミルクをぺちゃぺちゃと舐めていた。
最初こそ見たことのない文字が書かれたメニューに目を丸くしていた尊だが、暖かい湯気とおいしそうな香りを漂わせる料理が運ばれてきた途端に我を失った。
ネフィーリアに箸という食器は存在しないため、木製のフォークを駆使して尊はひたすら料理を味わった。運動部所属の上に第二次成長期、真っただ中の尊はとてもよく食べる。その量は積み上げられた皿を見れば否応無しに分かるだろう。加えて長いこと食事抜きともなれば、成人男子にも負けない量を食べる。
尊の豪快な食べっぷりに、ライやマーチは勿論のこと同じく空腹で食事をしていたテオドシウスまでもが目を丸くして尊を見つめていた。
何の肉か分からない串焼きを食べ終えた尊は、漸く周囲の視線に気付く。慌ててお椀を机に置くと、ご飯粒を口の端につけたまま真っ赤になって俯いた。
「ご、ごめんなさい。お腹減ってて、少し我を忘れちゃって……」
恥ずかしくなって照れ隠しに頭を掻く。
自分の食事風景は智子から『女を捨てている』と評価されているので、初見の三人はさぞ驚いたことだろう。自分でもあまりよろしくないとは思って気をつけてはいるのだが、食べ物を前にすると理性よりもあっさりと本能が勝ってしまうのだから嫌になる。
「いやいや、あっぱれ。そこまで壮快に食べてもらえると、見てるこっちも気持ち良いよ」
そう言いながら、ご飯粒がついているとジェスチャーで示すマーチに尊はあわあわとナプキンで口を拭う。
それから、斜め前に座るライに申し訳なさそうに視線を向けた。
「あの、こんなに食べちゃってごめんなさい!その………」
「代金のことならば心配しないでください。ミコト様が満足されるまで食べて下さっていいのですよ。そうだ。カリオジの蒸焼きなどは如何ですか?」
「わわっ、もういいよっ!!」
にこにこと微笑んで更に料理を追加しようとするライを慌てて止める。まだ腹八分目だが、これ以上は逢ったばかりの人にご馳走して貰うわけにもいかない。
そう、逢ったばかりの人。
「あ゛っ」
尊は漸く、相手は勿論のこと何の自己紹介もしていないことに気が付いた。怒涛の展開と空腹に、呑気に挨拶をしている暇などなかった。
気付いたからにはちゃんと自己紹介をしなくては。
きちんと居住まいを正すと、尊はマーチとライの二人に頭を下げた。
「ごめんなさい。挨拶が遅れちゃった。あたし、峰岸尊って言います。あ、こっち風に言えばミコト・ミネギシかな。えっと、高校一年生で、年齢は十六歳。特技は六歳から始めた剣道だよ」
言ってしまってから気が付いたが、高校やら剣道の単語が通じるのだろうか。クライヴの剣の型を見る限り剣道とはかけ離れているので、少なくとも『剣道』という言葉はないだろう。
けれど、二人はニコニコと微笑んで尊の挨拶を受け入れてくれた。
「ご丁寧にどーもね。俺はマチェイ・ヤールグ。マーチでいいからねん♪ぴっちぴちの二十七歳。所属は
「ライラーク・フェノンです。皆はライと呼んでいますが、どうぞミコト様が呼びやすいように呼んでください。歳は二十三です。所属はマチェイと同じく
テンションが対照的な二人の自己紹介を聞き、尊は二人のデータを心に書き留める。
とりあえず、トゥワイルとはなんぞや。騎士隊ってことは所属している部隊のことなのだろうか。
尊が彼らに疑問を盛ったように彼らも尊に疑問を持ったらしい。マチェイが質問をする生徒のように手をあげた。
「ねー、ミコトちゃん。質問していい?」
「あ、うん。どうぞ」
「まずは一番の疑問。ミコトちゃんって女の子?」
この質問は胸に突き刺さった。
尊はすっかりいじけて肩を落とす。
「あはは……疑問符ついちゃうくらい、あたしって性別が謎な奴ですかね?カブトムシにも劣りますかね?」
異世界だからセーラ服が女の子の着る服だとは分からないのかもしれないが、それにしたって外見だけで女の子だと分かってほしい。
すっかり拗ねて机の上に『の』の字を書いていると、マチェイは否定するようにパタパタと手を振った。
「一見すると間違えるけど、ちゃんと女の子に見えるよ。だけど、罪人にも見えないから戸惑ってるの」
「マチェイ!」
ライラークが厳しい声でマチェイを止める。
『一見すると間違える』も引っかかったが、それよりも引っかかった言葉がある。
「…………罪人?」
どうして女の子なのかという質問が、罪人になってしまうのか。
いきなり飛躍した話に尊は不思議に思って首を傾げる。そんな尊を見つめてマチェイは困ったように眉を寄せた。
「その顔だとやっぱり知らないみたいね。もしかして、すっごい田舎出身とか?あのね、女の子が肩よりも髪を短くするのは『私は罪を犯しました』って言ってるも同然なんだよ」
「嘘!?」
初めて知ったネフィーリアの習慣にギョッとして目を瞠る。
そういえば、男性は長髪の人も短髪の人も見かけたが、女性で髪の短い人は一人も見なかった気がする。
まさかそんな意味があったとは知らなかったので、流行の違いくらいにしか思っていなかった。
「ミコトちゃんは男の子にも見えるからよかったね。下手すると石投げられたり、町を追い出されたりするから」
先ほどの自分がそんな綱渡り状態だったとは……。
男の子に間違われたことを、生まれて初めてよかったと思った。
「で、ミコトちゃんって何処から来たの?その服とか名前とか、ちょっと変わってるし。とりあえず、ノルマールの人じゃないよねー?」
マチェイの疑問はもっともだ。
真面目に膝丈なセーラー服ですら、踝までを覆うロングチュニックを着ている女性たちしかいない中では目立ちすぎる。その上、罪人と言われる髪形をしていれば当然の疑問だろう。
別に異世界から来たことを話すことに戸惑いはない。どうやら、この世界では召喚というものが常識のようなので。
ただ、
「えーとですねー……」
「バカ女!テメェ、よくも俺様を投げ捨てやがったな!!」
尊が意を決して口を開いた途端、気絶していたディア・ガディアスが怒鳴りながらテーブルの上に飛び乗った。
どうやら復活したらしい。
「あ、目が覚めたんだね」
「あ、目が覚めたんだね……っじゃ、ねェェエエエっ!!このディア・ガディアス様を投げ捨てるとはいい度胸してんじゃねェか」
わざわざ尊の声色を使ってモノマネをするディア・ガディアス。
しかも似ている。なかなかの芸達者だ。
というか、偉い
「ごめんってば!緊急事態だったから仕方ないよ」
「このディア・ガディアス様をクッションにしといてその台詞か!?」
「悪気はなかったんだよぅ……」
ディア・ガディアスのあまりの迫力に身を縮める。
外見は愛するポン太だというのに、中身は猛獣のようだ。扱い辛いことこの上ない。
どうやって宥めればいいのかと考え込んでいると、ライラークとマチェイが驚愕した顔でこちらを見つめているのに気付いた。
「……ぬいぐるみが喋っている?」
「ディア・ガディアスって、『あの』ディア・ガディアス?」
いや、驚愕の視線は動いて喋るぬいぐるみに注がれている。
どうやら世界が二つあったり、
尊はこほんと咳払いすると、ディア・ガディアスの身体を掴んでくるりとライラークたちの方に向けた。
「ライさん、マーチさん、こちらディア・ガディアスことポン太です。ポン太、こちらライラークさんとマチェイさんだよ」
「逆だろ、逆!!ポン太ことディア・ガディアス様だろうが!!」
「………ポン太だってことは認めるの?」
「しまったぁっ!!」
『あの』ディア・ガディアスはだむだむと地団駄を踏んだ後、テオドシウスの突っ込みにハッとして頭を抱えた。
完全に芸人にしか見えなくなっている。
「うーん、話がサッパリ読めないね」
「本当にディア・ガディアスなのか……?」
「ジロジロ見てんじゃねェよ、コルァ!!」
疑いの視線を向ける二人を責めることは出来ないと思う。
たぬきのぬいぐるみ姿もさることながら、ディア・ガディアスの性格自体がうさん臭さを増長させているのだから。
とりあえず、二人にポン太のことを説明しようとする尊。
けれど、開いた口から声が出ることはなかった。
外から聞こえた激しい破壊音と切り裂くような悲鳴に先を奪われたからだ。
「何事だ!?」
「只事じゃなさそうだね」
剣の柄に手をかけ、緊張した面持で立ち上がるライラークとマチェイ。
何事かと外に出て行こうとする店の中の人々をマチェイが笑顔で押し止め、ライラークは近くの窓からそっと外の様子を窺う。
流石は騎士。無駄のない俊敏な動きだ。
窓を見つめていたライラークが驚愕した顔で、マチェイを呼んだ。
「マチェイ、スティニアだ!!」
「マジかよっ」
ライラークの言葉に舌打ちするマチェイ。
マチェイだけではない。店の人々にも動揺が広がる。
皆が息を呑み、青ざめた顔で口々に何かを叫んでいる。
「馬鹿な……っ!?」
「条約を破ったのかっ!」
「そんな!娘が市にいるのよ!!」
『スティニア』が何なのかは尊には分からなかったが、今起きている事態が異常事態だということは分かった。
「皇子、ミコト様。こちらでお待ちください」
「いいか!何があっても誰も外に出るなよ!!」
言うが早いか、二人とも外へと飛び出してしまう。
何かが起こっている。それが何なのかは分からない。
それでもここでじっとしていることはどうしても出来なかった。
「あたしも行く!!」
「俺様を置いていくんじゃねェ!」
木刀を掴んで二人の後を追う尊の肩にディア・ガディアスが飛び乗る。
何だかんだで付き合いのいい
「僕も行くよ」
『きゅー』
その後をテオドシウスときゅーちゃんが続く。
木戸を弾き飛ばすようにして開け、外に出た尊の目に映ったのは悲鳴を上げて逃げ惑う人々の姿。人が入り乱れるうちに台が倒されたのか、道には踏み潰された商品が散乱している。あれほど活気に溢れていた市場が、今は恐怖と混乱に支配されていた。
何が起こっているのかが分からず、尊は状況判断をするために辺りを見渡す。
混乱の原因は、どうやら市中で剣を振り回している人間たちにあるようだ。これは流石に間違いない。
布の服を身に纏う人々の中、鎧兜の兵士たちはよく目立つ。そして、あの鎧には見覚えが……。
眉を寄せて記憶を探っていた尊は、兵士が地面に倒れている人影に向かって剣を振り降ろそうとした瞬間、我に返った。
「だめっ!!」
助けようにもこの距離では間に合わない。
考えるよりも先に身体が動いた。握っていた木刀を逆手に握ると、槍投げを真似て投げ付けた。
狙い違わず。尊の投げた木刀は兵士の兜を直撃する。
突然の攻撃に驚いて剣を下ろして辺りを見回す兵士。
「すごい、ミコト!」
「まだまだっ!!」
叫ぶと兵士目掛けて突進した。
人々が逃げ惑う中、向かってくる少女に驚いたのか兵士の動きが止まる。
その隙を逃す尊ではない。素早くしゃがむと、兵士の足を掬い上げるように足払いをかけた。
全身鎧の兵士は激しい金属音をたててひっくり返る。兜を打った衝撃に堪えられなかったのか、そのまま昏倒してしまった。
「やるじゃねェか、テメェ」
尊の肩にしがみついたままのディア・ガディアスが感心したように呟く。褒め言葉らしきものを言われたのはこれが初めてだが、尊はディア・ガディアスの言葉など聞いている余裕はなかった。
目の前で起こるパニック映画さながらの光景に青ざめる。周囲には地面に倒れて動かない人も、血塗れのまま逃げ惑う人もいる。
どうして、何が……。どうして、人が人を傷付けるのか。
「ミコト!!」
テオドシウスの声に我に返る。彼は尊が助けた肩から血を流して蹲る女性に手を貸していた。
そうだ。ぼうっとしている場合ではない。
今は出来ることをしなければ。
「あの、大丈夫ですかっ?」
「助けてっ!!」
手を差し出す尊に女性は恐怖に染まった顔ですがりつく。怪我をしていない方の手で手加減のなくしがみつかれ、尊の顔が痛みで歪む。
「落ち着いてください!今、安全な場所に避難を……」
「化物よ!化物が空から降ってきたの!!」
「ばけもの?」
『ウゥ〜!』
荒唐無稽な台詞に眉を寄せると、小さな唸り声が聞こえた。足下ではきゅーちゃんが何かを警戒するように毛を逆立て、空を見上げて喉の奥で唸っていた。
不思議に思って空に視線を向け、尊は目を瞠った。
最初、それは鳥だと思った。白い翼を持つ猛禽類。
猛禽類だと思ったのは、それが鷲によく似た鋭い嘴を持っていたから。
けれど、すぐに間違いに気付いた。
その鷲のような鳥……いや、生き物には獅子のような哺乳類の胴体がついていたからだ。
鷲の顔に獅子の胴体。
恐ろしいのはかなり上空を飛んでいるというのにその姿がはっきりと見えること。いったいどれだけ大きいというのか。
「なに、あれ……?」
「グリフォンだと……。ありゃ
「き、
「ああ。自力では
肩にぶら下がり呟くディア・ガディアスに尊は青褪める。
誰が何のためにそんな物を召喚したのかさっぱり分からない。けれど、あんなものが空を飛んでいるのは、ライオンが放し飼いにされていることとそう変わらない。いや、空が飛べる分、ライオンよりも質が悪い。
「皇子、ミコト様!!」
名前を呼ばれて顔を上げると、ライラークが兵士たちを剣で倒しながらこちらを見ていた。
視線はこちらなのに、ライラークは襲ってくる兵士たちを華麗に片付けている。驚くほどの腕前だ。クライヴに負けていない。
「危ないから中に入っときなっ!」
ライラークより少し離れたところからマチェイが叫ぶ。
こちらの武器は剣ではない。鉄の棒のようなもので戦っている。こちらも鮮やかに相手の剣を捌いている。
間違いなく、実力はライラークたちの方が格段に上だ。兵士たちも突然現れた腕の立つ騎士二人の存在に戸惑っているようだ。
マチェイの警告を無視し、尊は空を指差すと声を張り上げた。
「ライさん、マーチさん!上に
二人はすぐに視線を上に送り、表情を変えた。
「奴等、
「こりゃ、いつものオイタとは訳が違うね」
ライとマチェイのやり取りに眉を寄せる。ライたちは今、襲ってきている相手のことを知っているらしい。
それに『いつもの』オイタとはどういうことだ。この世界では……こんなことが日常だというのか。
くいくいとスカートが引かれる。下を向くと、テオドシウスが心配そうな顔で尊を見つめていた。
「ミコト、後はライたちに任せよう。二人とも強いからグリフォンにも負けないよ」
素直に『そうだね』とは頷きにくい。確かに二人の剣の腕は素晴らしいとは思うが、いくらなんでも剣で猛獣に勝つのは無理だ。賢いテオドシウスにそれが分からないはずがない。
「でも……」
「ライとマーチは大丈夫だよ。これが彼らの仕事だから」
戸惑う尊にはっきりとした口調で告げるテオドシウス。
そこには誇張でも盲目な信頼もない。当たり前のことを告げるかのような声音だった。
「……分かった。ライさんとマーチさんを信じる」
「うん!」
にっこりと頷くテオドシウスに笑い返して、尊は制服の袖を捲った。
「テオはきゅーちゃんを連れてさっきの食堂に逃げて」
「………ミコトは?」
「あたしは自力で逃げられなさそうな人を連れてくよ。化物相手じゃ役に立てないけど、怪我人に肩を貸すぐらいは出来るから」
「じゃあ、僕も手伝う」
「だめだよ、危ないからテオは……」
「ミコトだって危ない!」
声を荒げて真剣な表情で尊を見つめるテオドシウスに、驚いて目を見開く。
テオドシウスが大きい声を出したのは初めてのことだ。どんなに恐ろしい目にあっても落ち着いていたから、余計にびっくりした。
けれど、裏を返せばそれだけ尊の身を心配しているということなのだ。
「………分かった。それじゃ、テオにも手伝ってもらおうかな!」
テオドシウスの頭を撫でてにっこりと笑う。
幸い、兵士たちは攻撃の的をライラークとマチェイに絞ったらしい。民間人が襲われている様子はなさそうだ。
尊にしがみつく女性を初め、辺りには多数の怪我人がいる。その人たちを見捨てて、自分だけが逃げることなど出来ない。
「お姉さん、大丈夫ですか?立てますか?」
「あなた、
「
「そ、そう……」
無用な混乱&説明は避けた方がいいだろう。
喋るぬいぐるみの怪奇を腹話術の一言で片付けると、女性の膝裏に手を差し込む。よく貧血を起こして倒れる佐奈をお姫様抱っこで蒲団に運んでいたので、平均体重の女性ならば軽々と抱き上げることが出来る。
しかし、尊が女性を抱き上げることは出来なかった。
女性が重いわけでも、尊の腕力が落ちたわけでもない。悠々と空を飛んでいたグリフォンが降下していくのが見えたからだ。
グリフォンは逃げ惑う人々の頭上に舞い降りようとしている。近くに降りてくるほどその巨大さに圧倒される。ライオンなんかよりも遙かに大きい。
「みんな、逃げてっ!!」
尊が警告を送るが間に合わない。だいたい空を飛ぶ相手空どうやって逃げればいいのか。
転んだ子供に狙いを定めたのか巨大な嘴が襲いかかる。
『きゅー!!』
恐怖から目を閉じた尊の耳に届くのは、きゅーちゃんの鋭い鳴き声。
足下にいたきゅーちゃんを見ると、威嚇するように牙を剥き出したきゅーちゃんが大きく口を開けた。そこから巨大な炎の塊が飛び出す。
きゅーちゃんの口から火炎放射のように炎が吐き出され、グリフォンを強襲する。
『ギャオゥゥゥッ!!』
肉が焦げる臭いに毛皮が焼ける臭い。
咆哮をあげると、めちゃめちゃに羽ばたいて空へ逃げるグリフォン。きゅーちゃんの炎はグリフォンに大きなダメージを与えたようだ。
「きゅーちゃん、すごい……っ」
「ダールは炎の化身と言われる
角がなければ子犬にしか見えないきゅーちゃんが、まさか炎を吐くとは思わなかった。しかも、何倍も大きなグリフォンを撃退するほどの。
きゅーちゃんはというと、褒めてとばかりに尻尾を振りながらきらきらとした瞳で尊を見上げている。撫でてあげようと身を屈めた瞬間、
「避けろ!!」
ディア・ガディアスの叱咤が聞こえた。
何事かと上を見上げると、炎で顔の爛れたグリフォンが尊たち目掛けて急降下していた。翼を畳んで落ちてくるように降下する速さは先ほどの非ではない。すでに目の前に迫っている。
持ち前の反射神経ですぐにその場から逃げようとした尊だが、女性が自力で立てる状態ではないことを思い出して留まった。
「テオ!!」
どうすればいいのか分からずに動けなくなっているテオドシウスを、女性の上に突き飛ばす。くぐもった悲鳴を無視して二人の上に伸し掛かると、覆い被さるようにその身体を抱え込んだ。
これならば、グリフォンの鉤爪も嘴も二人には届かないはずだ。
「っの、バカ―――!!」
降ってくるのはディア・ガディアスの罵声。
ディア・ガディアスの気持ちも尤もだ。
いくら剣道で全国区の腕前を持つと言っても尊は安全大国である日本の女子高生。このような状況に陥れば、まったく動けなくなって当然であり、それは許されることだ。
けれど、彼女は常に身を呈してまで他人を守ろうとする。
それは並ならぬ正義感につき動かされているだけではない。
それは………。
「……………?」
鉤爪か嘴が襲ってくるものだと思ったのに、いつまで待っても尊の身体に衝撃はこない。
代わりに水滴がポタポタと落ちてくる。雨が降ってきたのかと一瞬思ったが、それにしては水滴が大きいし落ちてくる場所が一定だ。
「ライ!!」
マチェイの叫び声。
こめかみに落ちた水滴が、頬を滑って口の中に入ってくる。口腔に広がる鉄錆の味。
頬の筋肉がひくりと攣った。
「皇子、ミコト様……っ、ご無事ですかっ!?」
何故かすぐ近くで聞こえたライラークの声に、尊は油が切れた機械のようなぎこちなさで顔を上げた。
視界を染めるのは紅。
水滴の正体は、ライラークの腕から滴り落ちる血。力なくだらりと下げた手を見て、尊の動きが止まる。
「ライ!?」
尊の下から這い出したテオドシウスがライラークに駆け寄る。
「ひっ、ひいっ!」
女性は降ってくる血に怯えて尊にしがみつく。
けれど、尊は微動だにしない。まるで身体が凍り付いてしまったかのように動くことが出来なかった。
「大丈夫なの、ライ!」
「この程度、何ということはありません。さ、皇子お逃げください」
「そうそう。坊っちゃんたちが早く逃げるのが俺たちのためよ」
いつの間にか傍にいたマチェイが、泣きそうな顔をしているテオドシウスの頭を宥めるように撫でる。
ライラークの腕には三本の爪痕が刻まれているが、溢れる血の量も落ち着いてきたし、ちゃんと動いている。
「よく手が吹っ飛ばずに済んだな。きゅー助の攻撃が効いてたか。まっ、ラッキーだったな。なぁ、バカ女」
「…………………………」
「おい、コルァ。俺様が話し掛けてやってんだから、返事ぐらいしやがれ」
肩に乗ったままのディア・ガディアスが尊の後ろ頭を叩くが尊は何も言わない。
ライラークを………ライラークの血を見た時から、瞳は宙を彷徨ったままだ。周囲が何かを言っているのは分かったが、何も聞こえない。どんな音も尊の耳には届かない。
違う。聞こえる。
心臓の音。誰かの?違う、自分の心臓。
それから、声。優しいあったかい声。
尊の名前を呼ぶ声。
目の前が突然、真っ赤に染まる。ライラークが流す血のように紅く。
◇◆◇
首に巻いていたスカーフを外し、腕に巻きつけるライラーク。出血は酷いが傷自体は神経にまで達してはいないようだ。ホッと安堵の息を漏らして、マチェイは尊に視線を戻す。
十六歳の少女が一切の躊躇も見せずにテオドシウスたちを庇ったことには驚いたが、やはり普通の少女だったらしい。ライラークの怪我を見て可哀相なくらいに硬直してしまっている。
本来ならば優しい言葉の一つもかけてあげたいが、まだ危機が去ったわけではないのだ。辛辣なようだが、足手まといにはならないで欲しい。
「ミコトちゃん。ぼやぼやしてないで、あんたも早く逃げて」
動かない尊に業を煮やしたマチェイが尊の腕を掴んだ瞬間、
「うわああああああぁぁぁ―――っ!!」
尊の喉から咆哮が上がった。悲鳴のような慟哭のような、意味を成さない叫び。
驚いたマチェイは彼女から手を離す。
「ミコト!?」
「どうした、バカ女っ!」
テオドシウスやディア・ガディアスの声も届かない。
尊は座り込んだまま頭を抱えて、全てを拒絶するように首を振る。
「うわあああぁぁっ!!あああああああぁぁぁぁ!!」
癇癪を起こした子供のように叫ぶ尊の声に触発されたのか、グリフォンが空で鳴いた。鳥とも獣ともつかない不思議な鳴き声。
そして、叫び続ける尊を標的に選んだのか彼女を目掛けて襲いかかる。
「危ない、ミコト!」
「皇子!?」
半狂乱になっている尊を庇おうとテオドシウスが前に飛び出す。小さな背中が尊を庇う。
テオドシウスの背中を見つめる尊の目が、目尻が切れるのではないかと思うほど見開かれた。
「いやだああああぁぁぁ―――っ!!」
今までにない声量で尊が悲鳴をあげた。
同時に尊の肩にしがみついたままのディア・ガディアスの身体が光を帯びた。
「この感覚……っ。あの時と同じ―――!?」
その場にいた誰もが尊と光るディア・ガディアスを見つめていたため、気付くのが遅れた。
空から迸る眩い閃光と鋭い雷鳴。そして、断末魔の叫び。
頭上を振り仰いだ者たちが目にするのは、やけにゆっくりとした速度で墜ちてくる黒焦げのグリフォン。
「おっと!」
地響きを立てて地面へと墜落した。幸いに誰もいないところに落ちてくれたが、下敷きになった屋台はもう使えないだろう。
気が付くと、あれだけいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。たまたまいた
「雷ねぇ?雲一つないってのに……」
細い煙をあげる黒焦げのグリフォンを見つめながら、信じられないとばかりにマチェイは呟く。
晴れ渡った空からは考えられない自体だ。
「運がよかったのか、それとも………」
横目で尊を見ると、だらりと腕を垂れて放心していた。先ほどまでの狂乱が嘘のように脱力している。
「ミコト………?」
テオドシウスが、尊の肩に触れようとそっと手を伸ばす。
けれど、その手が届く前に、彼女の身体は糸の切れたマリオネットのようにゆっくりと前のめりに倒れていった。
地面に投げ出されそうになった尊の身体を、テオドシウスが慌てて受け止める。
「ミコト!ミコト!?」
「ミコト様っ」
尊の身体を揺さぶり声を掛けるが、尊はぴくりとも動かない。完全に気を失っていた。
「………………」
ディア・ガディアスが一人、無言のまま釦の瞳で尊を見つめていた。