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2009/11/12 掲載
2章 : 知らない世界 12
着替え終わったミコトやテオドシウスたちが去り、人口密度の減った部屋の中。
マチェイだけは去らず、ライラークのベッドの傍らに椅子を引き寄せてそこに座った。

「いやぁ……似合ってたなぁ、ミコトちゃん」

マチェイの言葉にライラークは同意することも出来ずに唇を引き結んだ。目を閉じてしみじみと呟くマチェイの脳裏に浮かんでいるのは、恐らく去り際の尊の姿だろう。
確かにセリーヌが趣味で作っているドレスよりは、遥かに似合っていた。よく似合ってはいたのだが………。

「どこからどう見ても可愛い顔した少年だった」
「マチェイ!」

しんみりと頷くマチェイを咎める。何故ならその発言は真実を突いていたからだ。
治癒室に用意してある衣服は怪我人のために動きやすさを重視しているため、僅かに大きい。大きな上着を腰の辺りで革紐で縛って長さを調節し、ズボンを穿いた尊の姿はどう控えめに見ても町民の少年だった。
本人も思うところがあったらしく、登場した時には可哀相に……頬が引き攣っていた。

「けどさぁ、本当によく分からないなぁ」

ふぅと溜息をついて長めの前髪を掻き上げるマチェイ。

「上等な衣服に髪にまで栄養の行き渡ったところを見る限りじゃ貴族の子に見えるんだけど、性格は庶民臭いんだよね。でも、物知らずじゃない。受け答えや呑み込みの早さ………ちゃんとした教育を受けてるみたいだ」
「そうだな。お前の挑発にも乗らなかったしな」
「あ、やっぱ分かった?」

ぺろりと舌を出すマチェイに、やはりそうだったのかと納得した。
ルゥの護衛を断ろうとした尊にわざとレオンハルトの体面が関わっていることを匂わせた。宮廷魔導師の件に関してもそうだ。彼らが忙しいのは実際のことだが、あんな風に挑発して言う必要はない。
マチェイは試していたのだ。彼女がどこまで言葉の裏を読め、柔軟に対応できるのかを。
結果は優秀と言っていいだろう。護衛をつけることは命令だとすぐに気付き、軽い調子で彼女の申し出を断ったマチェイに対しても礼を尽くした。

「目上の人間に対する礼節を分かってるから、貴族だとしたらかなり上の地位だな。ただ、それなりに剣も扱いなれてるとなると……やっぱり貴族のお嬢様じゃないか」
「だが、殺気には慣れていないようだ。完全に怯えていた」

喉元に剣を突きつけられて凍り付いていた尊を思い出し、ライラークは『可哀相なことをしてしまった』とポツリと呟く。
普段ならば女子供に手を上げるなどという愚挙は起こさないのだが、あの時はテオドシウスのことで頭に血が上っていた。
けれど、尊は笑って許してくれたのだ。それだけでも、彼女が心優しい少女なのだと言うことが分かる。

「そうなると、騎士って線も消えるなぁ。うーん、ますます何者なんだろ?」
「本人に聞いていないのか?」
「聞いたよ。チキュウって異世界に住む、普通のガクセーなんだとさ」
「は?」

マチェイの唐突過ぎる台詞に、ライラークは思わず間の抜けた声で聞き返してしまった。
普通のガクセーというのも意味がわからないが、それよりも『異世界』とは何のことなのだろうか。しかも、聖神界(ラウディール)ではなく、チキュウ?

「俺もさっき聞いたんだけどね、どうもミコトちゃんは人間界(エディアール)でも聖神界(ラウディール)とも違う世界の子みたいよ。ディア・ガディアスの召喚に巻き込まれて、チキュウって世界からネフィーリアに来ちゃったんだって。びっくりだよね」

あまりに荒唐無稽な話に、ライラークは呆気に取られた顔で目を瞬く。
不思議な服装に、少女でありながら短い髪。ノルマールの少女ではないと思っていた。それでも、ネフィーリアではない異世界から来たと言われても簡単には信じることが出来ない。

「ミコト様がそう言ったのか?」
「そっ、おいしそうにケーキ食べながら。………この話、信じる?」
「信じがたいな」

マチェイの質問に首を横に振る。
いくら、ネフィーリアが人間界(エディアール)聖神界(ラウディール)という二つの世界に分かれているとはいえ、長い歴史の中で他の世界の存在など確認されたことはない。
騎士であるライラークには、魔導師たちのように召還(リアース)の原理や仕組みは分からない。彼らならばまた違った結論を出すのかもしれないが、二十三年間で培ってきたライラークの常識ではとても受け入れることの出来ない話だ。
質の悪い嘘ついているか、妄想を述べる頭のおかしい娘と思うのが普通だろう。
けれど………。
尊の姿を脳裏に浮かべる。

「だが、ミコト様の言葉ならば信じる気になる」

他の人間の言葉ならば戯言だと思うしかないが、それが他でもない彼女の言葉ならば信用したいと思う。
明るく素直、元気で優しい少女。剣を突きつけたことを責めるどころか、怪我をしたライラークを心配して泣きそうになっていた。
何よりも、彼女はテオドシウスを助けるために何度も命を懸けたのだと聞いた。そして、ライラークの目の前でもテオドシウスと女性を助けようと身を投げ出した。
そんな少女が嘘をつくとは思えない。

「やっぱりねぇ。ミコトちゃんだから完全否定も出来ないんだよね」

マチェイも同じ結論だったらしい。
全てを鵜呑みすることは出来ないが、それでも彼女を信用したいと思う。
けれど、信じていると言いながらもマチェイの表情は浮かない。

「でも、あの子には何かある」
「何か?」
「ライも見ただろ?あの晴天で雷が落ちてくるなんて有り得ない。しかも、グリフォンを直撃」
「あれはディア・ガディアスの具現(ルーレイ)ではないのか?」
「ディア・ガディアスかどうか疑わしいぬいぐるみの具現(ルーレイ)には違いはないだろうけど、ミコトちゃんの悲鳴と同時にって出来過ぎてない?」
「そうか?あの時は切羽詰まっていたからな。ミコト様を助けようとしたのではないか?」
「お前、好意を持つと相手のこと全面的に信用する癖を直しなさいよ。確かにミコトちゃんは悪い子じゃないけど……。あの子の背後にはきっと何かがある」

言いながら、彼自身も迷っているらしい。困りきったように蒲公英色の髪をがりがりと掻いている。

「それが善いものなのか悪いものなのか、今は分からない。けど、それがこの世界を変える気がする」

先代・長巫女の甥という血筋のためなのかは分からないが、マチェイの勘はよく当たる……というか外れたことがない。
漠然としたものを感じとるだけしか出来ないが、彼の勘のお陰で死線をくぐり抜けたこともある。

「ミコト様が世界を変えるのか?お前にしては大袈裟だな」
「俺もそう思う」

へらりと締まりのない顔で笑うマチェイは冗談なのか本気なのか区別がつかない。

「ま、危険人物じゃないにしろ、要注意人物ってとこかな」
「陛下はなんと仰っている?」
「『気になるならとことんまで調べてみれば?』ですってよ。完全に人事だよ、あの人」

いかにもレオンハルトが言いそうな台詞だ。
部下を信用していると言えば聞こえがいいが、ただ単に放任主義とも言える。

「それから、お前にも伝言。『皇帝の儀が終わるまではお前に構ってる暇ないから、ここにいろ。人手不足だから見張りはつけられないけど逃げるなよ』だって」
「………そうか」
「あとこれ、ハルヴァリ団長から」

いつの間に持ち込んでいたのか。恐らくはルゥの騒動のせいで持ち込んでいたことに気付かなかったのだろう。
マチェイが突き出したのは布に包まれた棒状のものだ。受け取って掛けられた布を払う。
包まれていたのは、騎士見習いの時から使っている愛剣。城に帰ってきたときに取り上げられたはずだ。

「こんなもんを置く場所はねえから、テメェでどうにかしろよ、だとさ。………この意味、分かるな」

分からないわけがない。
ライラークは微笑を浮かべて、布団の上に置いていた指を組んだ。
レオンハルトの気持ちもハルヴァリの気持ちも痛いほどに嬉しかった。そして、マチェイの気持ちも。
けれど、その気持ちに応えるわけにはいかなかった。

「七日も此処にいては、セリーヌ殿やウィンターソン先生に迷惑を掛けてしまうな」

呟いた言葉にマチェイが顔を歪める。
小さく舌打ちをすると、椅子から立ち上がってライラークの胸倉を乱暴に掴んだ。

「ふざけんなよ、ライ。分かってんだろ?皇帝の儀が終われば、ヤツらが黙っちゃいない。陛下たちの配慮を無視する気か?」
「陛下たちのお気持ちは有り難い。だが、私がノルマールを離れるわけにはいかないだろう」
「………秩序を守るためにとかバカなこと抜かしたら殴るからな」

剣呑な瞳でこちらを睨むマチェイ。いつもは垂れた目が、今は吊り上がっていた。
滅多なことでは感情を読ませない彼が、目に見えて怒りを露わにすることは珍しい。ライラークを心配しているからこそだろう。
ここでライラークが逃げることは簡単だ。鉄扉に鍵を掛けられようと、見張りもいないこの部屋から逃げるのは一部隊を任せられているライラークには、赤子の手を捻るより容易いことだ。
そして、レオンハルトは皇帝の儀が終わっていないことを理由に騎士団の追っ手を差し向けないだろう。役人相手ならば逃げ切れる自信がある。
けれど、どうしても出来ない。
マチェイは馬鹿だと言うが秩序は大切だ。民の見本となるべき立場にいる自分が秩序を壊すわけにはいかない。
そして、それ以上にライラークには大切なものがある。

「私は、テオドシウス皇子を裏切りたくない」

逃げてしまえば生き残ることは出来るが、逃げた時点でライラークは脱走兵の烙印を押される。
それは即ち、彼らの疑惑を認めることだ。テオドシウスを裏切ったということになる。

「このボケナスが。坊ちゃんがそんなこと思うわけないだろ」
「皇子のお心だけの問題ではない」

あの心優しい皇子は、ライラークが逃げても決して責めはしないだろうし、裏切られたと思うこともないだろう。それどころか、ライラークの無事を願うだろう。
テオドシウスが分かってくれたとしても、対外的に見れば彼は自分の騎士に裏切られた皇子ということになる。そんなことは許されない。例え己の命を落とすことになっても、彼の不名誉になることだけは避けたかった。
マチェイはライラークの瞳をじっと見つめてから、

「っバカヤローが……」

突き放すように胸倉を離した。
マチェイは椅子に身を投げ出し、深々と溜息をついて宙を見つめる。すぐに苛立ったように頭を掻き毟ると、今度は力尽きたように首を垂れた。
そのままの体勢でしばらく口を閉ざしていたかと思うと、不意に顔を上げる。そして、天井に向かって叫んだ。

「っあ〜〜〜〜〜〜!!」

苛立ちを吐き出すような咆哮をあげると、少しは鬱憤も晴れたらしい。こちらを見る目は、いつもの垂れ目に戻っていた。

「お手上げ。もう知らね。ってか、知ったことか」

苦々しい表情で呟くと、言葉通りに両手を上げる。

「好きにしな。お前の命だ。使いどころはお前が決めればいい」

吐き捨てるように言って立ち上がると、部屋を出て行こうと背を向ける。
突き放した物言いには、彼の悔しさが滲み出ていた。友人を救えない悔しさ。それでも、ライラークの決意を認めてくれる優しさ。

「マチェイ」

声を掛けても振り向かない背中。

「ありがとう」

礼を言うと扉に掛けた手が止まる。
それは一瞬のことでマチェイはそのまま部屋を出て行ってしまった。振り返ることはなかったが、きっと気持ちは伝わっただろう。

小さく息を吐いて、左腕に視線を移す。
袖を捲り上ると、そこには三本に並んだ傷痕がある。グリフォンの爪痕だ。
尊に傷痕は残っていないと言ったのは、彼女が心細がる表情でライラークを見つめていたからだ。傷痕が残ったなどと言えば、自分を責めてしまいそうな彼女に本当のことは言えなかった。
傷痕をそっとなぞる。
ノルマールで最高の治癒師であるウィンターソンの腕ならば傷痕など残さずに治すことは出来るが、ライラークは敢えて傷痕を残してもらった。己への戒めとテオドシウスを危険に晒した代償に………。
ライラークの警備が万全ならばテオドシウスが攫われることも、あのような危険に晒されることもなかったのだ。
だからこそ、責任を取らなくてはいけないのだ。

「ライラーク様、失礼します」

鉄の扉を軽々と開けて、セリーヌが部屋の中に入ってきた。手にたくさんの布を抱えている。
持っていた布を小さな卓の上に置くと、沈んだ顔で振り返った。

「……話はマチェイ様から聞きました。何かご用がありましたら、何でも言い付けでください」
「すまない。セリーヌ殿と先生にはご迷惑をお掛けする」
「気になさらないでください。まだ、どうなるかなんて分からないのですから」

不安そうな顔をしているが、何とかライラークを元気づけようとしている様子が伝わってくる。

「少しでも気分が変わるように色々と持ってきたんですよ」
「え?」

そう言って、セリーヌは卓の上に置いた布の一つを広げた。
先ほどとは打って変わって輝くような笑顔を見せている。対照的にライラークの顔は引き攣った。

「どうですか、ライラーク様!!」

セリーヌが広げた布は、彼女が大好きなひらひらフリフリのレースの塊。
形状からするとカーテンだろうか。

「………それは?」
「こんな辛気臭い部屋では息が詰まるでしょう。ですから、少しでも気分が晴れるようにとご用意しました!」

満面の笑みで、次々と広げていく布は全てレース。部屋をレースで埋め尽くす気らしい。

「お着替えも私が作ったので、明日からはそれを着てくださいね」

一切の悪気のない笑顔を見せる彼女に、どうすればセリーヌを傷つけずに断れるのだろうかと冷や汗を流しながら頭を抱えた。
◇◆◇
部屋のドアを開けると、日の落ちかけている外とは違って室内は明るかった。誰かが蝋燭の火を灯しておいてくれたらしい。
抱いていたディア・ガディアスを解放した尊は、どさりと天蓋付きベッドに身を投げ出した。

「あ〜……疲れた」

ふわふわの枕に顔を埋めて、溜息混じりに呟く。
セリーヌに持ってきてもらった――少年にしか見えない――服に着替え、早々に治癒室を後にした尊は、そのまま自室に直行した。
自室と言うのは最初に寝かされていた部屋のことで、ノルマールにいる間はそこを尊の部屋として使うことになった。本当はもう少し質素な部屋の方が良かったのだが、そういう訳にもいかないようだ。広い部屋というのに憧れてはいたものの、いざ暮らすことになると布団を二組しか敷けないアパートの部屋が懐かしい。
ちなみに今着ている服も治癒室ならまだしも城を歩き回るには問題があるので、明日は新しい服を見繕ってくれるそうだ。根が庶民的な尊としては申し訳ない限りである。偉い人のお客様という立場もなかなか大変だ。
ベッドの上に寝転がったまま、もぞもぞとズボンのポケットを探る。
中に入っていたのは制服の胸ポケットに仕舞っていたパスケース。制服はセリーヌに預けたが、これだけはちゃんと手元に残しておいたのだ。
パスケースを開けば、佐奈の笑顔が待っている。
尊はじっとパスケースを見つめてから、小さく息を吐いてそれをベッドの横にある小さな棚の上に置いた。

「………あ、そうだ。勝手に断っちゃったけど、ポン太は夕飯は食べなくて大丈夫だった?」

ベッドの上をポテポテと歩き回っているディア・ガディアスに視線だけを送って声を掛ける。
せっかくテオドシウスが夕食会に誘ってくれたのだが、体力と精神力に限界がきてたので断ってしまった。テオドシウスやルゥたちはまだしも、これ以上は知らない人を紹介されても覚えていられる自信がない。
……店大食漢の尊としては断るのもは大分辛いものがあったが。

「この身体でどうやって飯を食えってんだよ……」
「だよね〜」

怒りで身体を震わせるディア・ガディアスを横目で見て、ぷひっと鼻で笑う尊。

「テメェのせいでこの身体になったんだろうが!」

喚かれた言葉に身体を起こすと、尊は唇を引き結んでからディア・ガディアスを睨み付けた。

「それでも、テオの身体を奪うよりはよかったよ」

笑って聞き逃すことも出来たが、ディア・ガディアスの言葉を拾ってしまった。既に何度も聞いた台詞で一度もまともに取り合わなかったが、今は無性に苛立つ。
一歩間違えば、彼が入っていたのはテオドシウスの身体だ。ポン太の身体の中に入ったからディア・ガディアスに好意を持っているが、万が一にもテオドシウスの身体の中に入っていたら彼を許さなかっただろう。
そう考えると沸々と怒りが沸いてきた。
自分でも口調が尖っていることに気付きながら、ディア・ガディアスに尋ねた。

「なんで聖神(ラウル)は人の身体を奪うの?」
人間界(エディアール)の物の『中』じゃなけりゃ存在出来ねェからだ。聖神(ラウル)のままの姿で存在することも出来るが、一時間以上は無理だな」
「………身体を奪われた人はどうなるの?」
「ンなこと聞いてどうすんだ」

質問を質問で返された。
ディア・ガディアスが尊に視線を向ける。いつもは感情が溢れてるはずの釦の瞳からは、今は何の感情も読めなかった。
どうするかなど分からない。ただ答えを聞きたかった。
無言のままディア・ガディアスを見つめていると、彼は呆れたように溜息をついてから答えた。

「一つの器に二つの魂は存在出来ない。稀に同化することもあるが、99%は消える」

人間(エアル)聖神(ラウル)。どちらが消えるのかなど尋ねる必要はなかった。そんなこと聞かなくたって分かる。
ぎゅっと拳を握る。

「へえ……。それが分かってるのに、ポン太は人間界(エディアール)に来たんだ?」
「俺だって好きで召還(リアース)されたんじゃねェ」
「ふーん。テオの身体を奪いかけて他人事なんだ」

口調が尖っているなんてものじゃない。尊は自分でも認識出来るほどにディア・ガディアスを責めていた。

「そうだよね。ポン太にはどうでもいいんだよね。あたしが巻き込まれたことだって……」

苛々する。むかむかする。
なんでだろう。ディア・ガディアスの言うこと全てに腹が立つ。
ディア・ガディアスが好きで人間界(エディアール)に来たんじゃないことも分かっている。(面倒くさいって言い切ってた)
テオドシウスの身体だって奪われずに済んだのだから、これは仮定の話だ。
それなのになんで………。
突き動かされるような怒りの出どころを探っていた尊は、ぎりぎりと歯噛みしていた力を抜く。
怒りの原因が分かった。

(………完全な八つ当たりだ………)

尊はディア・ガディアスに対して怒っているんじゃない。この世界に偶然なんかで連れてこられた自分の理不尽な境遇に腹を立てていたのだ。
冷えた頭で考えてみれば、ディア・ガディアスは何も悪くない。いや、もしかすると少しは悪いのかもしれないが、それでも彼は自分からテオドシウスの身体を奪おうと人間界(エディアール)に来たわけではないのだ。
自分がこの世界に来てしまった原因に当たり散らすことが出来ないから、身近にいたディア・ガディアスに怒りをぶつけたのである。
八つ当たりだと気付いたならば、尊がディア・ガディアスにする対応はただ一つだ。
ベッドの上で正座をすると、そのまま頭を下げた。

「ごめんなさい、八つ当たりです!!」

Tha・土下座。日本に生まれ日本で育ったならば、遺伝子に染み付いている謝り方の作法である。

「佐奈ちゃんから離れて苛々して、ポン太に当たってしまいました!」

悪いのは自分なので潔く謝る。
深い溜息が頭の上から聞こえたかと思うと、柔らかい感触が頭に乗せられた。

「そんなはっきりと謝られちまえば、こっちも責めにくいだろうが」

ぶっきらぼうだが優しい言葉。
絶対に罵詈雑言を浴びることになると思っていたのに。

「ゆ、許してくれるの!?」

ガバッと顔を上げる。
それで漸く事実に気付いた。頭に乗っていたのはディア・ガディアスの手ではなく足だということに。
固まる尊を、鼻で笑うディア・ガディアス。
真摯に謝っている人間の頭に足を乗せるとは、どういう了見なのだ。
眉を吊り上げると、尊は勢い良く頭を上げた。

「うおっ!」

尊の頭に足を乗せたままのディア・ガディアスは体勢を崩してベッドに転がる。

「急になにしやが……っ」
「ポン太のバカァァァッ!!」

ディア・ガディアスが起き上がるより早く、尊は小さな身体の上に全身全霊を込めて飛び掛かった。

「テメ、体重差を考え―――ぐぎゃああっ!!」

腹の下から蛙が潰されたようなくぐもった悲鳴が聞こえたが構うものか。
人が悪いと思って謝ればこの態度。愛想がつきた。可愛さ余って憎しみ&怒りが千倍とはこのことか。
腹の下で何か喚いているディア・ガディアスの上に無言で乗っかっていたが、しばらくすると疲れがピークに達したのか眠くなってきた。

「う〜……」

閉じそうになる瞼を擦る。
剣道にバイト漬けという毎日を送っていても、こんな疲労は感じたことがない。身体は鍛えている方だし、睡眠時間も割と短くても平気だ。
まだ夜というには少し早い時間にこんなに眠くなるのは、きっと精神的な疲労がとても大きいのだろう。
明日の朝食はテオドシウスと食べる約束をしているので早く寝ることにしよう。

(お風呂に入って、歯磨きしたかった………。テオに場所を聞いておけば良かった)

普段とは違う環境に涙しつつ、既にテオドシウスと別れた今は仕方がないので我慢する。
ディア・ガディアスの上からどくと、尊は部屋の中の蝋燭を吹き消して回る。ベッドに戻ると、ぺちゃんこになっている彼を胸に抱き、気候に適した薄い上掛けをする。最後に枕元の蝋燭を消すと、ベッドに横になった。

「おい」
「もう寝るから静かにね」
「おい」
「しぃ〜」
「おい」
「おやすみ」

ぽんぽんとディア・ガディアスの背中をあやすように叩いて、尊が目を閉じた瞬間。

「なんで俺様がテメェと仲良く寝なきゃならねェんだ―――!!」

案の定、切れたディア・ガディアスが尊の腕の中から抜け出して尊を蹴り飛ばした。
やはり、誤魔化しきれなかった。このまま何も触れずに寝てくれればいいと思ったが、そうは問屋が卸さなかったようだ。

「知ってるくせに」

尊は身体を起こすと小さく溜息をつき、下唇を突き出して上目遣いにディア・ガディアスを見つめる。

「ポン太の記憶があるなら理由は知ってるくせに」


この問いにディア・ガディアスは答えなかった。代わりに顔を逸らした。それはすなわち、図星だということだ。
尊には大変恥ずかしい習性がある。
姉を溺愛していることやポン太を持ち歩いていることを恥ずかしいと思ったことがない尊だが、流石にこれだけは恥ずかしくて智子や梨絵にも内緒にしている。
けれど、ディア・ガディアスならば知っているはずだ。


「ポン太を抱っこしながらじゃないと、あたしは寝れないんだよ」


抱っこされて毎日一緒に寝ていたポン太の記憶を持っているのだから。

十歳までは特に何も思わずに毎日のようにポン太を抱いて寝ていた。
十二歳になった頃も、大好きなポン太なのだから恥ずかしくないと思っていた。
中学生に入ってから、ぬいぐるみと寝るのは少し恥ずかしいんじゃないかと思い始めた。
十五歳の剣道合宿の時、流石に仲間と寝る時にぬいぐるみを抱いているのは恥ずかしいと置いていったら一睡も出来なかった。結局、合宿三日目に睡眠不足で倒れた。
習慣とは恐ろしい。これではまずいと色々と策を練ったが、どうにもならなかった。
最早、尊はポン太なしでは眠れない身体になっていたのである。

「だから、一緒に寝よう」

精一杯の笑顔に、精一杯の甘えた声。

「やなこった」

一言で却下された。
尊は半泣きでディア・ガディアスに詰め寄る。

「ひどいよ、ポン太!睡眠不足になって死ねって言うの!?」
「睡眠不足になって倒れりゃ少しは寝れるだろうが!」
「そんなの寝るんじゃなくて気絶っていうんだよう!」
「知るか!なんで俺様がテメェと仲良く一緒に寝なきゃなんねェんだよ!?」
「仲良くしようよ〜!あたしが佐奈ちゃんのとこに帰るまでは、どうせ一緒にいるんだからさぁ」
「そんなにいられるか!俺は次の満月に聖神界(ラウディール)に帰んだよ!!」
「え………」

ディア・ガディアスの発言に目を瞠る。

「ポン太、帰るの?」

尊がぼんやりとした表情でした質問に、ディア・ガディアスはばつが悪そうに口を噤む。
けれど、それは一瞬のことで直ぐに質問に答えた。

「あの布野郎と契約をしてねェからな。契約が交わされなけりゃ、聖神(ラウル)人間界(エディアール)にいられねェ。新月に呼ばれ、契約が成立しなけりゃ満月に帰る。そういう誓約だ」
「……そっか。ポン太は帰れるんだ」

俯いて、意味もなくシーツの皺を見つめる。
帰る目処さえ立たない自分と、帰れる日まで分かっているディア・ガディアス。
悔しくないと言えば嘘になるし、羨ましいに決まっている。尊だって、早く佐奈の元へ帰りたい。
きゅっと唇を引き締めてから、

「良かったね、ポン太」

尊は口の端を引き上げて笑顔を浮かべた。
ちょっと不自然だったかもしれないが、それでもディア・ガディアスを祝福したかったから笑った。

『ポン太はずるい!』

そう言ってディア・ガディアスを罵倒することも出来た。けれど、そんなことをする自分は嫌いだと先ほどの八つ当たりで充分感じたし、何より自分と同じようにディア・ガディアスが帰れないよりはずっといいと本心から思っていた。
聖神界(ラウディール)がどんなところかは知らないけれど、きっとそこにディア・ガディアスの家族や友人がいるだろう。彼もそこに帰りたいはずだ。
ディア・ガディアスはにこにこと笑う尊をじっと見つめてから、深々と溜息をついた。

「本物のバカだな、テメェは」
「まさかのバカ発言!?」

なんで祝福してバカと言われなければいけないのか。別に優しい言葉を期待していたわけではないが、それにしてもひどすぎる。

「短い間なんだから仲良くしてよ〜」
「やなこった」

ケッと吐き捨てて、ベッドに倒れ込むように寝るディア・ガディアス。尊も頬を膨らませながら横になる。
さっさと寝てしまったのか、押し黙ってしまうディア・ガディアス。しかし、瞼がないので起きているのか寝ているのか判断に迷う。
頬をつついてみる。反応がない。どうやら寝ているようだ。
そろそろと腕を伸ばして、自分の胸の中に引き寄せる。また怒られるかなとびくびくしていたが、文句はなかった。眠っているようだ。

柔らかいポン太の感触に頬を緩ませる。
この世界に来て、漸く心の底から安堵できた。
目を閉じてポン太の感触だけを感じていると、今までのことが全て夢に思えてくる。いつも通り、佐奈と蒲団をくっつけてボロアパートに寝ているのではないかと錯覚してしまう。

(佐奈ちゃん、心配してるだろうな)

心配なんてものじゃない。地球での尊の扱いがどうなっているかは分からないが、神隠しにしろ家出にしろ、きっと佐奈は探し回っているだろう。遊園地でも動物園でも水族館でも………いつも迷子になった尊を見つけてくれたのは佐奈だった。
彼女を独りにしないと十年前に誓ったはずなのに。どうして自分はこんな所にいるのだろう。
胸が苦しくなったかと思うと、頬を熱いものが零れていく。
怖い。辛い。苦しい。帰りたい。
今まで我慢していた感情が全て溢れ出した。
テオドシウスたちは好きだ。そこに不満なんかない。けれど、知っている人が誰一人としていない世界は不安で怖い。
智子や梨絵とおしゃべりして、敬史に稽古をつけてもらって、佐奈の待つ家に帰りたい。
最後に見た佐奈は泣きそうな顔をしていた。自分があまりにも子供だったせいで、佐奈の結婚を祝福することが出来なかったから。
佐奈の幸せを喜んであげることも出来ずに姿を消した妹のことを彼女はどう思っているのだろう。

「……っ………うっ……」

しゃくりあげて涙を流していると、腕の中から声がした。

「寝れねェだろうが」

ぶっきらぼうだけど、冷たくはない声。
起きていたのか起きてしまったのか分からないけれど、離れろとは言わなかった。
少しだけ見せた優しさに縋りたくて、尊はディア・ガディアスを抱き締めた。

「ポン太ぁ……っく……佐奈ちゃ……あ、あたしのこと……ひっ……嫌いになっちゃ、わないかなぁ……」

ぐしゅぐしゅと嗚咽混じりに尋ねると、彼はまた溜息をついた。なんでか呆れられてばかりだ。

「テメェの大好きなオネェチャンは、んな心の狭い女なのか?」

ディア・ガディアスの言葉に全力で首を横に振る。
佐奈の心が狭いなどととんでもない。彼女の心は太平洋よりも広い。

「だったら、嫌いになったりしねェだろ」

その言葉はすとんと胸に落ちてきた。
そうだった。佐奈がそんなことで尊を嫌うはずがない。彼女はどんな時だって優しくて温かい人だった。

「自分が好きな相手なら信じてやれよ」
「……うん!」

自分が大好きで信じている佐奈は、決して尊を嫌うなどとは考えず必死で尊を探していてくれるだろう。
そんな風に思うこと自体、佐奈のことを疑っているも同然だった。

「佐奈ちゃん、『みぃちゃん大好き』っていつも言ってたからねっ」
「テメェの脳内、単純で羨ましい限りだな」

呆れたように言って深々と溜息をつくディア・ガディアスだが、尊は気にしないで涙を拭った。
彼のおかげで分かった。尊に出来ることは、佐奈を信じて帰るための道を探すことなのだ。

「ポン太、ありがとう」

腕の中のディア・ガディアスをぎゅうっと抱き締める。彼は何も言わなかったが、抵抗もしなかった。
尊の顔に笑顔が浮かぶ。
口は悪いし、すぐに手が出るけれど………根は優しいのかもしれない。

「………あと、一個いい?」
「あ?」
「もぞもぞ動かれるときになって眠れないから、あんまり身動きしないでね」
「テメェ………」

こうして異世界に来て初めての夜は少しずつ更けていくのだった。
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