(明日は絶対に智子に絞られるだろうなぁ)
今までさんざん智子の恋バナに付き合ってきたのだから、尊だけが何も言わないという訳にもいかないだろう。
そして、梨絵は智子のように怒ったりはしないだろうが、好きな相手を言うまでは絶対に引かないだろう。
おっとりとした外見のせいか大人しく見える梨絵だが、いざとなったらてこでも動かず、ある意味では智子よりも怖い。
別に好きな相手を友人に言うことが恥ずかしいわけではない………というわけでもないが、それよりも口に出してしまうことが嫌だった。
口に出してしまうとその感情を認めることになるから。
他の年頃の女子に比べると圧倒的に恋愛事に興味のない尊だが、好きという感情ぐらいは分かっている。
自分の感情を理解していないわけではないのだが、はっきり認めてしまうというのも癪なのだ。
恋心に癪というのも何だか変な話なのだが………。
眉間に皺を寄せて難しい顔で考え込んでいる間に、いつの間にか家についていた。
築30年ちょっとの年季ばりばりのボロアパート、五月雨荘。名前だけはご立派なこのアパートが尊と佐奈が住んでいる家だ。
「おや、尊ちゃん。お帰りなさい」
「ただいま、里ばあちゃん」
101号室に住むおばあちゃんに笑顔で挨拶をしてから203号室に向かう。
ご近所で幽霊アパートと呼ばれるほどに不気味な佇まいをした五月雨荘には、変化を嫌う老人ばかりが住んでいる。
そのため、入れ替わりが頻繁ではないので住人とはみんな顔見知りだ。6歳からここに住んでいる尊を孫のように可愛がってくれる気のいい人たちばかりである。
多少雨漏りが気になる五月雨荘だが、住めば都でなかなかいいところだ。少なくとも尊はここを出て新しいアパートに住みたいと思ったことはない。
軋む階段を上って203号室に辿り着き、玄関のドアを開けるとおいしそうな夕飯の香り。今日はシチューのようだ。
頬を緩めながら靴を脱いで茶の間に向かうと、
「おかえりなさい、みぃちゃん」
柔らかい笑顔を浮かべた佐奈が尊を迎えてくれる。
「ただいまー」
鞄と愛用の竹刀を置いた尊はそのまま甘えるように佐奈に抱きついて、その豊かな胸に顔を埋める。
ふわりと漂う甘い香りにほぅっと息を吐き出した。
「あらあら、みぃちゃんは今日も甘えん坊さんね」
佐奈はそんな尊を振り払うこともなく優しく頭を撫でてくれる。この瞬間がどうしようもなく幸せで、尊は至福の笑みを浮かべた。
真っ白い肌にくっきり二重瞼の大きな眼。おっとりとした性格に美女と呼ぶに相応しい風貌。
血の繋がりを疑われるほどに尊には似ていないが、正真正銘の姉である。
「ほら、お父さんとお母さんにただいまは?」
「あ、はーい」
促された尊は我に返り、佐奈から離れて茶の間の隅にある箪笥に向かう。
そこに尊の両親がいる。
「お父さんお母さん、ただいま」
そう言ってから、箪笥の上にある両親が仲睦まじく写っている写真に笑いかけた。
仏壇を買うお金はないので、この写真立てと水の入ったコップを乗せた箪笥が仏壇代わりだ。
両親は十年前に交通事故で亡くなった。それからはずっと佐奈と二人暮しをしている。
一人っ子同士の両親は親もすでになく、引き取ってくれる親戚はいないも同然だった。普通ならば施設に預けられていたのだろうが、思っていたよりも大きな額の死亡保険がおりたおかげで遠い親戚のおばさんに後見人になってもらい二人で暮らすことが出来たのだ。
佐奈は高校を卒業をして小さな町工場の事務を務め、尊を養ってくれている。彼女は尊を大学まで出すつもりのようだが、尊は高校を卒業したらすぐに働くつもりだ。少しでも愛する姉の負担を減らしたかった。
いつも尊を第一に考えてくれる年の離れた姉は、友人のような母のような、たまに妹のようにも思える大切な存在なのだ。
「今日のご飯はシチュー?」
「うん、オム・ビーフシチューよ。みぃちゃん好きでしょ」
「わーいっ」
大好物に両手をあげて万歳する。
ケチャップご飯に卵を乗せて、シチューをかけるオム・ビーフシチューは尊の大好物だ。
いそいそとスプーンを用意する尊を、智子と梨絵が見れば顔を引き攣らせるだろう。ケーキをホール三個分食べてようと、夕飯もちゃんと食べられる。何故なら、甘いものとしょっぱいもの別腹だからだ。
席について手を合わせようとすると、正面に座った佐奈が真剣な瞳で尊を見つめている。
「あのね、お話があるの」
見たことのない佐奈の雰囲気に気圧された尊は、正座をして背筋を伸ばしてから頷いた。
佐奈は一度目を閉じると、大きく深呼吸をする。それだけで尊には分かった。佐奈はひどく緊張している。いつもおっとりとしていてどちらかというと天然が入っている佐奈は、緊張など……特に尊の前ではしたことがない。
驚く尊を余所に、佐奈はコホンと咳払いをしてから本題に入った。
「お姉ちゃん、結婚しようと思ってるの」
澄んだ声音が告げた台詞に、尊の周囲だけ時が止まる。
食べる前にいってくれたのは正解だ。何か口に含んでいようものなら思いっきり噴き出していた。
しばらく思考回路を停止させていた尊は、ハッと我に返ると卓袱台に膝を強打しながら勢いよく立ち上がった。(痛くて蹲りそうになった)
「結婚!?結婚って!?」
「えっと、男女が夫婦になるってことかな。つまりは婚姻を結ぶって意味ね」
違う。そういう意味じゃない。結婚の意味を聞いているわけでは決してないのだ。
この重大発表でなんでこんなボケをかませるのだろうか、この人は。まあ、そこがたまらなく愛しいのだが。
「あ、みぃちゃんは何も心配しなくて大丈夫よ。みぃちゃんは今まで通り、お姉ちゃんと一緒だからね」
幸せそうに微笑む佐奈の言葉を額面通りに受け取ると、結婚相手とやらは尊のことも面倒を見ると言っているのだろう。
そういえば佐奈の口癖は『みぃちゃんのことも愛せる人じゃなきゃ好きになれないわ』だった。彼氏を作らないための方便かと思っていたが、どうやら本当だったらしい。
そこまで思ってくれているのは文句なしに感無量だが、いつの間に結婚するような相手が出来ていたというのだろう。佐奈に近付く男はことごとく排除していたと言うのに、何処でその難関を逃れた男がいたのか。
(あいつ……?それとも、あいつか?)
今まで排除してきた顔と名前も一致しない男たちを薄ぼんやりと思い起こしていると、心臓を鷲掴みにされるような言葉が佐奈の口から零れ出た。
「相手はみぃちゃんもよく知ってる人よ」
目を逸らしたかったのに、視線は佐奈に釘付けだった。
嫌だ、そんな奴の名前は聞きたくない。大好きな姉を奪う男の名前なんか聞きたくない。
いつかは離れなきゃいけないことは分かっている。だけど、どうして今なのだろうか。
まだ、自分には必要なのだ。
自分だけを愛してくれる姉の………佐奈の存在が。
佐奈の形のいい唇が開く。
告げられた名前は確かによく知る相手の名前だった。
「
キレイなキレイな笑顔。
少し照れているのか赤らんだ頬。でも、とてもとても幸せそうな顔。
嬉しかった。その言葉に嘘はない。
大好きな大切な姉。
そんな姉がこんな表情を浮かべるのだから、きっと幸せになれるだろう。
だけど。
「………みぃちゃんは嫌?」
硬直して無言になってしまった尊に佐奈が声を掛ける。
佐奈の顔が曇るが、それはショックを受けたからじゃない。尊を心配しいるからだった。
「ごめんね、お姉ちゃんみぃちゃんのこと考えてなかったわ。ちゃんとみぃちゃんに話してから結婚を決めなきゃいけなかったね」
違うの、嫌じゃない。
そうじゃなくて、あたしは―――。
言いたいことは山ほどあるのに喉が閉まったように声が出ない。
尊が何も言えないうちに、佐奈は自己完結をしてしまったらしい。伸ばされた腕に身を竦めると、優しく佐奈に抱き締められた。
「みぃちゃんが反対なら結婚やめるわ。みぃちゃんが喜ばない結婚はしたくないの。お姉ちゃん、みぃちゃんが誰よりも大切だから」
優しくて暖かい抱擁。色んな感情が交差して泣きそうになる。
何か言わなきゃと思うのだが、口を開くと嗚咽しか出なさそうだ。けれど、今泣いてしまうと佐奈を責める意味の涙になってしまうのは分かっている。
尊に出来ることは佐奈の抱擁から逃れることだった。
「みぃちゃん………」
身を捩って佐奈から離れると、佐奈が泣きそうな目でこちらを見ている。
「―――っ!!」
それこそ尊も泣きそうだったが、何とか耐えて身を翻す。
学校鞄を蹴り飛ばし、何も考えずそれと立てかけた竹刀袋を掴むとアパートを飛び出した。
向かうところはただ一つ。
愛する姉の心を奪った、あのくそ野郎の元に決まっている。