青春ドラマさながらに、夕陽に向かって『ばかやろー!こんちくしょー!いてまうぞ、こるぁっ!!』と叫んだら、少しはこの陰鬱とした気持ちも晴れるだろうか。その前に変質者に間違われて通報される方が先か………。
聞いた相手の気が滅入ってしまうような溜息をついて、尊は我が家へと続く帰り道をとぼとぼと歩いていた。
腕の中には、不細工と称するに相応しいタヌキのぬいぐるみが収められている。先ほど、学校鞄から取り出したものだ。
ぬいぐるみの名前は『ポン太』。見た目を裏切らない名前である。
違う種類のものを取り付けてあるために、目となっている釦の大きさは不揃い。手と足の長さが合っておらず、傍から見てバランスが悪い。よく商品として扱ったと感心するほどに不恰好なぬいぐるみだ。
尊の亡き母が残してくれたものなのだが、もしかすると母の手作りだったのかもしれない。その場合、姉である佐奈の破滅的な手芸の不器用さにも納得がいく。
けれど、このどうしようもなく不細工で不恰好なポン太こそ、尊にとってなくてはならないものだった。
記憶がある頃からずっと行動を共にしてきたポン太は、尊の相棒であり御守りであり、精神安定剤のような存在だ。ふかふかの生地に触れているだけで幸せになれるのだ。
だからこそ、十六歳になった今でもポン太を学校にまで連れていくほど大切にしている。智子たちには姉離れとぬいぐるみ離れしろと言われているが、どうにも無理な相談だ。
「敬史のバカ………」
自分の耳にだけ届く声で、恨みがましく呟いた。
「バカバカ敬史。鈍感男。十年も傍にいたのに、なんだってあたしの気持ちが分からないんだよぉ………」
幼い頃から敬史のことが好きだった。
ずっと見てきたのは、佐奈だけのことではない。敬史のことだって、ずっと見ていたのだ。
初めは兄のように慕い、次は剣士としての敬史に憧れて、最終的には異性の中で一番好きな人になっていた。
佐奈よりも好きなのかと聞かれれば答えに詰まるが、それでも敬史が初恋の人だと胸を張って言える。
佐奈も敬史も大好きだからこそ、二人が惹かれ合っているのには当の昔から気付いていた。敬史を『敬史兄ちゃん』と呼ばなくなったのだって、お兄ちゃんというのが洒落では済まなくなりそうだったからだ。
それが惹かれあう二人に対して出来る、尊の儚い抵抗だったのである。
「相手が佐奈ちゃんじゃなければ、どんな手を使ったって敬史を渡さなかったよ」
敬史に惚れている人は同じ道場内にも、ファンとして詰め掛ける人々の中にもいたが、そんな相手に負ける気も退く気も一切なかった。
でも、佐奈には勝てない。そもそも勝負するつもりもない。誰よりも愛する自慢の姉だから。
それに佐奈の相手が敬史でなければ、佐奈を渡さなかった。
佐奈と敬史だからこそ、二人の恋を認める気になったのだ。
「なんで佐奈ちゃんに惚れたの……。敬史のバカたれぇ………」
鼻の奥がツンとして、目の前の景色がぼやける。
尊は喉の奥に力を込めて、涙を流すのを堪えた。どん底の思考でも、往来で号泣はさすがに恥ずかしいと分かっている。
「ポン太ぁ………あたし頑張ったよ。去り際とかカッコよかったし、なかなか決まってたよね?」
ぶらぶらと道を歩きながら、腕の中のポン太に話しかける。こちらも下手をすれば往来で号泣よりも恥ずかしいことだが、虚ろな眼をした尊が気付く様子はなかった。
どうしようもなく寂しくて、今はとてもじゃないが笑えない。
佐奈のことを守る必要がなくなった。敬史を心の支えにすることができなくなった。
尊は一遍に、大切なものを二つも失ってしまったのだ。
絵具で好きな色を混ぜていくと、最終的にただの黒になってしまった。そんな、ちょっと惨めな気分。
でも、いつまでも落ち込んではいられない。家に帰って、佐奈に悲しい顔は見せたくない。
ショックを受けないといったら嘘になるけれど、それよりも二人の結婚を祝福したかった。佐奈と敬史の幸せを笑顔で祝福したいと想うのは、尊の心からの気持ちなのだ。
尊は不意に足を止めると、ポン太を片手で抱き締めて、余った片手をスカートのポケットに突っ込む。
指に触れる包装紙の感触に唇を緩めた。
尊から佐奈への婚約祝いを兼ねた少し早い誕生日プレゼント。
先ほどバイト代の全額を引き落として、アクセサリーショップに寄って買ったのだ。
中身は佐奈に似合いそうだと思った、シルバーの指輪。バイト代を全て注ぎ込んだ指輪には、小さいとはいえ本物の宝石も入っている。
可愛くラッピングされた箱をポケットから取り出して眺め、照れたように微笑んだ。
「佐奈ちゃん、喜んでくれるよね」
佐奈の天使のような笑顔を思い浮かべ、尊は再び足を進めた。
あんな風に家を飛び出してしまったのだから、早く仲直りしたい。そして、佐奈に心からの『おめでとう』を言いたい。
我が家まで後少し。後少しで佐奈の笑顔が見られる。
交差点に差し掛かり、信号機が赤だったので足を止める。
ふと視線を向けた横断歩道の向こう側に、まだ小学生になる前……恐らく四、五歳の女の子が一人で立っていた。
辺りを見回すが、少女の近くには親どころか人がいない。あんな小さな子から目を離すなんて危ないにも程がある。
尊など中学生になってからも、教師が親代わりの佐奈に向かって『尊さんから目を離さないでくださいっ!!』と訴えていたものだ。
(お母さん、どこにいるんだろ?迷子なのかな?信号が変わったら、あの子を保護しよう)
早く青に変わらないかなと信号を見つめていると、何かを探すように辺りを見回していた幼子が尊に目を止める。
いや、尊ではない。尊の背後に立つ女性を見つめたのだ。
電球がぱっと点くように不安そうな顔から笑顔になった子供がこちらに向かって駆け出した。
けれど、信号機は未だ赤のまま。
「ゆうちゃん―――!?」
女性の悲鳴と同時に、尊の手から佐奈への贈り物が落ちる。
トラックのクラクションが聞こえるよりも早く。頭で何かを考えるよりも早く。
尊は交差点へと飛び出していた。
こういうシーンがドラマでスローモーションになる度に『使い古した演出を使って……』と呆れていたが、命の危機というのは本当にスローモーションになるようだ。
女の子を力一杯突き飛ばして、地面に投げ出される身体。
むき出しの膝がコンクリートと擦れて、強い痛みが走る。
地面に手をついて立ち上がるよりも早く、トラックが目の前に迫っていた。
鳴り響くクラクションと、タイヤとコンクリートの摩擦音。
(敬史………佐奈ちゃんっ!!)
この世で一番大好きな人たちの名を心の中で呼んだ瞬間、全身がばらばらになりそうな衝撃が尊を襲った。