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2009/06/12 掲載
2章 : 知らない世界 1
いつもよりも遅く家に帰ってきた少女は、目も当てられない姿だった。
腕や足には大量の擦傷や切傷。柔らかそうな頬にはくっきりと三本の爪痕。ポニーテールに縛っていたはずの栗色の髪は、ほとんど解けている。
満身創痍で帰ってきた娘を見ても、母親は何一つ取り乱すことはなかった。

「お帰りなさい」

優しく出迎えた少女を伴い居間に入ると、用意してあった救急箱の傍に座るように促した。

「今日は何があったの?」

傷だらけの少女の手当てをしながら、ぽつりぽつりと話し出す少女の言葉に耳を傾ける。
前後が移動する少女の話を纏めると、木の上で動けなくなっている猫を助けようとしてこうなったらしい。
すると、顔の爪痕は猫につけられたということになる。救済しようとした相手に襲われるとは皮肉な話だ。

「いだっ!!」

消毒液が染みた脱脂綿を傷口に当てられて、少女は悲鳴をあげる。
大きな目がじわりと潤むが、涙が零れることはなかった。

「酷い目にあったわね」
「うん………」

猫に頬を引っ掻かれた拍子に、木の上から落ちているらしい。酷い目と言うか、もはや災難としか言いようがない。
けれど、少女の瞳には負のものは何一つ見当たらない。力強い笑みを浮かべて少女は言った。

「でも、ほっとけなかったんだ。弱いものは守らなきゃいけないから」

胸を張る少女に、母親は苦笑を浮かべた。
少女の台詞は彼女が好きなヒーロー番組の受売りだろう。
活発で元気な少女は、普段から欠かさずにヒーロー番組を見ている。そのせいか、正義感と責任感の強さはこの年頃の子供にしてはとても強い。
恐らく大人しくて身体の弱い姉と共に育つうち、人を擁護する気持ちが強くなったのだろう。

「助けた相手に引っ掻かれても?」

包帯を巻きながらの母親の質問に、少女は少し考えるように首を傾げる。自分の傷だらけの身体を見つめ、少し困ったように眉を寄せたがそれは一瞬だ。
母親の質問に無言で大きく頷く。
どうしてなのかと理由を尋ねる母親に、少女は輝くような笑顔を見せた。

「だって、助けないでいたほうがコウカイするもん!」

きらきらと眩い瞳。迷いのない瞳は子供だけが持っている特別のもの。
この瞳が出来るうちは、まだ世界は少女のものなのだ。

「後でこうすればよかったって思うのはいやなんだ。だから、やれることはゼンブしなさいって、お父さんが言ってた!」
「そう……。尊は強いわね」

頭を撫でてくれる母親に、少女は更に笑みを深くした。
自分のことを肯定してもらうのはいつだって嬉しい。それが大好きな母親ならば尚更。
母親の言葉も自分の思いも真実だと………叶うものだと信じて疑わなかった。
あの日、

「尊―――!!」

血のように紅いあの夕陽を見るまでは。
◇◆◇
勢い良く瞼をこじ開けた。
自分の意思で夢から覚めるのには、この十年間ですっかり慣れた。嬉しくもない特技だが。
母の夢が見られるのは嬉しいが、如何せん締め括りがいただけない。アレさえなければ、幸福な夢で済ませられるというのに。

(しばらくは見なかったのに)

小さく溜息をついた尊は、再び目を閉じて寝返りを打つ。
が、不自然なまでの蒲団の硬さに眉を寄せる。いくら尊の寝床が煎餅蒲団とはいえ、まるで直に床で寝ているような硬さなのだ。
いや、違う。『まるで』ではない。尊は実際に床の上に寝転んでいた。

「あれ………?」

また居間で昼寝でもしてしまったのだろうかと怪訝そうに目を瞬いた尊は、すぐ横に転がっている学校鞄に目を止めた。
最悪だ。蓋が開いていて中身が散らばってしまっている。拾わなければと身を起こし、大きく伸びをしながら顔を上げる。
目の前に広がる景色に、尊は腕を上げたまま凍り付いたように動きを止めた。驚きが頂点に達すると、人間は思考のみならず動きも止まるものらしい。

何処だ、ここは。

眼前に広がる情景を、ぽかんと口を開けて瞳に映した。
洞窟。ダンジョン。石牢。
そんな言葉が似合いそうな、日本とはかけ離れた雰囲気をもつ薄暗い場所に、尊はぽつんと一人佇んでいた。

「は?え?」

事態を呑み込むことが出来ず、ごしごしと目を擦る。
薄暗くて、周囲が遠くまでは見渡せない。それは光源が、壁にかけられている松明のみのせいだ。
床は石畳。壁も石が煉瓦のように敷き詰められたもので、木の住宅が売りの日本ではあまりみない構造の建物だ。神に誓って、こんな場所に見覚えはない。

「どこ?」

首を傾げていると、前方の下の方が仄かに明るいことに気が付いた。どうやら吹き抜けのような作りになっているらしい。
足下に注意しながら光に魅かれるように前に進む。そっと下を覗いてみて………再度、固まった。
中央でごうごうと燃えている焚火。これが明かりの正体だったらしい。お陰で下の様子がよく見えた。……………余すところなく。
十数人の人々が尊を見上げて立っている。
一番手前にいるのは黒い布を頭からすっぽり被った『怪しい』としか送る言葉がない人。その隣に立つのは鎧……世界史の挿絵にあったような鎧を身につけ、顔を漆黒の仮面で覆った人。そして、二人の背後に控えているのは、仮面男よりは少し粗末に見える鎧兜を身につけた人たち。兵士なんて言葉が似合いそうな格好である。全員が顔どころか性別すらも不明だ。
彼らも尊の登場に驚愕しているらしく、先程の尊同様に凍り付いている。

「………コスプレ集団?」

可能性として一番高いものを呟いてみたが、この張り詰めた雰囲気からして正解ではなさそうだ。
とりあえずは落ち着いた方がいいだろう。
胸を押さえながら深呼吸を一つ。この訳の分からない事態になる前を思い出してみることにした。

「えっと………あっ!と、トラックに跳ねられたんだ!?」

幼子を救おうとして、代わりにトラックに轢かれた。
生きていることは嬉しいが、その場合は目が覚めたら病院が正解なのではないだろうか。まさかトラックに撥ねられたことが夢なのかと訝しむが、血の滲んでいる膝は幼子を助けようとした時にコンクリートで擦って出来たもので間違いない。

「傷があるってことはさっきのことは現実で、痛いってことは夢じゃない………」

では、何で病院ではなくこんなところにいるのか。
考えても仕方ない。目の前にいる珍妙な衣装を身につけた人たちに訳を訊くのが早そうだ。

「あの、」
「なんだ、あの女は!誰が連れてきた!?」

口を開いた途端に布男に怒鳴りつけられ、尊は驚いて身を竦ませる。激しく怒っているところを見ると、布男は尊の存在を知らなかったようだ。
それでは、余計に自分がここにいる意味が分からない。

「早くどかせ!ディア・ガディアスが降臨する前に!!」

布男の号令に従い、兵士たちが動く。一糸乱れぬ動作で階段を上ってきた。
階段とは言っても、手摺も何もなく段があるだけのものだ。とても狭くて、人が一人通れるほどの幅しかない。不安定なその階段を驚くほど素早く上ってくる。

「な、なんでそうなるの!?」

誰も戸惑う尊に救いの手を差し出してくれない。尊はどうすればいいのか分からず、おたおたと兵士たちを見つめるしかない。逃げることすら思い付かなかった。
混乱状態に陥っている尊の耳に、金属同士が擦れる音が届く。布男の命令通りに動いた兵士が、尊の元に到着していたのだ。

「あ、あのですね、あたしは不法侵入ではなくてっ」

とりあえず、今の自分の状態を説明しようと尊が口を開く。
しかし、尊の言葉が終わるよりも先に、兵士が腰に下げた鞘から剣を抜いた。

「え?」

尊は呆気に取られて、抜き身となった剣を見つめる。
炎を照り返す刃は、演劇部の友人に見せてもらった小道具の剣などとは輝きが断然違う。間違いようもなく真剣。

(―――銃刀法違反だ)

脳裏を掠めたのは、かなりどうでもいいこと。
兵士は尊の胴体を真っ二つにするべく、剣を真一文字に薙ぎ払った。

「――――――っ!?」

しかし、尊とていくら竹光とはいえ、剣を握って十年。この程度の太刀筋ならば見切ることは難しくない。
鋼で出来た真剣と竹で出来た竹刀ならば、たとえ剣士が未熟でもスピードは竹刀の方が早い。尊は後ろに飛んで身体を退く。

「いいい、いきなり何するのぉっ!?」

すれすれで剣を避けた尊は裏返った声で文句を言う。目の前に立つ兵士を睨み付けるが、その目は恐怖のために涙で潤んでいる。

「不法侵入しただけで殺そうとするなんて………。まさかの治外法権!?」
「問答無用だ!!」

混乱している尊に構うことなく、兵士は再び剣を振り下ろす。

「ひっ!?」

今度も何とか攻撃を避けて、尊は真っ青になり頬を引き攣らせた。
冗談でもどっきりでもない。兵士の殺気は限り無く本物だ。

(なんなのいったいなにがおこってるのってゆーかしぬしぬころされちゃうっ!!)

光る刃先を焦りと共に見つめて、じりじりと後退すると踵に何かが当たった。乾いた音に足下へと視線を巡らせる。
それは、一本の蜘蛛の糸。赤い革の竹刀袋だった。
考えるよりも先に尊の身体は動いていた。
足の爪先で竹刀袋を自分の胸の前まで蹴り上げると、そのまま右手に掴んで革袋から愛用の木刀を引き抜く。
竹刀と木刀で少し迷ったが、丈夫な方がいいだろう。

「こ、これは正当防衛なんだからね!!」

試合や稽古以外で人に木刀を向けるのは初めてのこと。
言い訳めいた台詞を口走ってから、木刀を正眼(せいがん)で構えた。それを合図に兵士が尊へと襲いかかる。
相手の獲物が真剣といえど、やることは道場の試合と変わらない。
正面から自分の首を狙った剣を、鍔競りにならないように木刀で横から弾く。刃がない剣の平を狙ったために、木刀が切られることもなく軌道を逸らすことが出来た。
尊は退かずに前に出ると、兵士が反応を示すよりも速く兵士の懐に潜り込む。

「めぇんっ!!」

予想外のことに驚く兵士の頭を、尊は渾身の力を込めて木刀で叩いて後ろに下がる。珍しく型どおりに出来た、見事な引き面打ち。
たったそれだけのことで勝負はつく。
鉄で出来た兜は剣道で使う面とは違う。硬度では勝るものの衝撃を吸収出来ないのだ。あまりの衝撃に兵士は、よろめいて後ろに下がる。
けれど、背後には階段があるわけで………。

「危な……っ!!」

ズルリ。
そんなお約束の音が、尊の耳には聞こえた気がした。やはり、兵士はお約束通りに階段から足を踏み外した。
ちなみに階段には、残りの兵士たちが詰め掛けている。更に言えば、手摺のない階段では踏ん張ることが出来ない。
未来を予知することが出来た尊は、目を瞑り耳を塞いだ。

「うわああああぁぁぁぁ!!」

耳を塞いでいても聞こえる、辺りを震わせる轟音。
人間ドミノ。まさに、そうとしか連想出来ない形で、兵士たちは一人残らず階段から転げ落ちていった。
轟音の後は、悲しくなるほどの静寂が辺りを支配する。
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