本棚から本を抜き取る。そこから漏れた光に目を細めた。
春の、優しい香り。隙間から、何かが現れた。
一匹の、黒揚羽。
ひらひらと
空間の闇を彷徨う
。
ビンセントは黒揚羽を追いかける。
本を実らす棚の森の中。
ビンセントの足音だけが響く。
黒揚羽はビンセントの手を擦り抜けて、
ひらひらと。
待って
おいで、僕の手の中に。
甘い甘いビーンズをあげるから。
ビンセントは青いビーンズを差し出す。
黒揚羽はそれを見つけたのか、向きを変えビンセントに飛んで来る。
ひらひらと。
そして、ビンセントの手に止まった。
黒揚羽はビーンズにその細長い口を刺し中の蜜を吸う。
黒い羽が、震える。
ビンセントはズボンのポケットから空の瓶を取り出した。
そして、
そうっと
そうっと
黒揚羽に
ビンセントは意識を戻す。机の木目が目に入った。少し目を上げれば、読みかけ
た本が見えた。
いつの間にか眠っていた。寒さも緩くなったとはいえ、こんなところで寝ていて
は風邪を引いてしまう。
「ビンセント、そろそろ授業が始まりますよ。」
声を掛けられ顔を向ける。分厚い眼鏡をかけた少年が、ビンセントを見ていた。
いつもは着ている筈の学ランがない。ビンセントはそれが自分の肩に掛かってい
るのに気がつき、少し顔が赤くなるのが自分でわかった。
「?何を持っているんですか?」
ジーニーに言われ、ビンセントは手元を見る。右手に、瓶があった。
不審に思いながらも、瓶を机に置く。
ひらり
中で黒いものが揺らめいた。
「おや、黒アゲハですか。一体どこで…?」
眼鏡を持ち上げてジーニーは覗き込む。
黒揚羽は静かに羽を揺らしていた。
「…春。」
ビンセントは呟いた。それがどういう意味かは分からなかった。
「春?ああ、確かに黒アゲハは春の虫ですね。」
ジーニーは相槌を打つ。
ああ、もしかしたら、この黒揚羽はあの夢で捕まえたものかも知れない。いや、
そうだ。あの、本棚の隙間から現れた黒揚羽。あの暖かい日差し。あの先は春だ
ったのだ。
「もうすぐ、春ですか。」
ジーニーは黒揚羽を観察しながら言う。ビンセントは頷いた。
「何にせよ、逃がしてあげましょう。」
ジーニーは瓶の蓋に手を掛ける。ビンセントは慌ててその手の上に手を被せた。
「駄目ですよ、ビンセント。可哀想でしょう?」
ジーニーは諭すようにビンセントに言う。ビンセントは俯いたが、もう一度名を
呼ばれて、しぶしぶ手を放した。
蓋が開く。
黒揚羽は図書室の空間に飛び出した。
ジーニーは窓を目一杯開ける。黒揚羽はひらひらと、外へ出た。
ジーニーは開け放った窓から黒揚羽を見送る。黒揚羽はすぐに夜の闇へ溶けてい
った。
ああ、黒揚羽は何処に行くんだろう。闇を越えて、春に辿りつけるんだろうか。
此処はまだ冬だよ。
風が通り、ジーニーは身震いした。
「…まだまだ寒いですね。」
両腕を抱えるジーニーの背中に、ビンセントは学ランを掛けた。お礼を言いかけ
たジーニーの胸に腕を回す。
「どうしたんですか?」
ジーニーは問うたが、ビンセントは何も言わなかった。
春はまだだけど、こうしていれば温かいだろう?